第3回「ごはん問題にみる愛の不均衡」

猫の国から来た編集長

~なぜ人間は自分のごはんばかり豪華なのか~

編集長のニャロウである。
吾輩は決してグルメではない。
ただ、毎日まじめに仕事をし、原稿を書き、
世界平和を夢見ている一匹の猫である。
だからこそ言いたい。
「なぜ人間は、自分のごはんだけ彩り豊かで、吾輩の皿はいつも同じなのか」と。

猫の皿はいつも”茶色一色”である

朝、飼い主はパンとコーヒー。
昼はパスター。夜はカレーやステーキ。
テーブルの上は、にぎやかな色と香りであふれている。

その足元で吾輩が見つめるのは、銀色の皿。
中身はいつもの、茶色いカリカリ。
「健康のためだから」と飼い主は言う。
だが健康とは、心の満足も含まれるのではないか。

ーーたまにはトッピングをしてくれてもよいのだぞ。

「ごはん=愛情」説についての考察

猫の国では昔から、「愛情の大きさはごはんの多さに比例しない」と教えられている。
だが、空腹のときに限って「あとでね」と言われると、
どうしても愛が軽く見えてしまうのが猫心というものだ。

人間の社会でも似たようなことが起きているらしい。
忙しさのあまり、「あとで」「今度ね」が口ぐせになる。
だが”あとで”の積み重ねは、やがて距離をつくる。
ーー吾輩は知っている、食器の音が愛のバロメーターであることを。

猫の国の”ごはん哲学”

猫の国では、食事は儀式だ。
まず香りを確かめ、静かに一口。
次に毛づくろいをして”余韻”を味わう。
つまり、「食べる」とは心を満たす時間なのである。

人間もスマホを見ながら食べずに、
たまには”ひと皿と向き合う”のがよい。
そして、吾輩の皿にも少し愛を添えてほしい。
(カツオ節でもいい。いや、むしろそれがいい。)

編集長のまとめ

「ごはんとは、会話の代わりである。」

同じ部屋で食べても、心が離れていては寂しい。
逆に、静かに見つめ合うだけでも、暖かい時間になる。
愛とは、特別な行動ではなく、”目の前の誰かを満たそうとする気持ち”なのだ。

今日の晩ごはん、少しだけでいい。
吾輩の皿にも、あなたの想いを分けてくれたら嬉しい。

次回予告

「犬社会と猫社会の外交問題」~仲良くしたいけど、テンションが違いすぎる件~

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